生粋の体育会女子がニュージーランドに住む話

生粋の体育会系女子がニュージーランドに住む話

ニュージーランドで生きると決めたのだ

生粋の体育会系女子が

ニュージーランドに住む話

〜どうせ国際恋愛とかもしちゃってんでしょ〜

人は1年でできることを過小評価している

去年の始め、私が「自信がないよ〜」ってクヨクヨしていた時、こんな言葉をかけてくれた人がいました。

People overestimate what they can do in a day, and underestimate what they can do in a year.

「人は1日でできることは過大評価してなんでもかんでも詰め込もうとするのに、1年で変えられることは過小評価する」という意味でかけてもらったこの言葉。

 

ズシーンと響いた。

引っかかって動かなかった歯車が動き出したような気がします。

 

あれから1年、私がみている景色は劇的に変わりました。
1年の持つ力は凄いものです。

 

立ち止まる、詰め込む

私はよく立ち止まります。

月曜日の朝は必ず。それで足りなければ、また別の日にも。

 

立ち止まって、紙に書き殴る時間を作る。

やりたいこと、悩み、モヤモヤ、フラストレーション、方向性、パッと閃いたアイデア、過去のこと、未来のこと。

納得するまで、形や表現を変えて同じことを色々な方向から書き出す時間です。

 

それからこの1日、1週間、1ヶ月でやりたいことをリストにします。

 

大抵は、どのリストも詰め込みすぎてやり切ることができません(笑)

それでガッカリしちゃうことの連続。

 

達成感を得られないこのプランの立て方は、良くないんです。良くないんだけど、変えられない。1日にできることを過大評価しすぎてしまう悪い癖なのです。

 

みなさんもついついやっちゃいませんか?

どうやったら直せるかなあ。

 

先を見る、疑う

短期間でできることは強気に詰め放題するのに、新年の抱負は弱気です。

 

「2年後までには叶ってるかな?」って思って作ったリストたちは、今振り返ってみれば、半年後にはほとんど叶っていたりする。

 

「あはは、当時はこんなちっぽけなことで足止め食らってたんだな。」とひと回り大きくなった私が笑います。自分の成長を感じる瞬間。微笑ましくもある。

 

でも、知らず知らずのうちに自分の能力や可能性を疑っていたことに気付く。

 

私が私を信じないでどうする?

 

信じることが最初の一歩

想像できない未来にはたどり着けるはずがないんです。

 

目的がないならただの放浪になる。

行きたい方角があるだけで旅になる。

 

未来を想像するのはタダです。
リスクを追うこともない。
誰かに迷惑をかけることもない。

 

自分に未来を想像させるチャンスすら与えてないのは、自分だったりする

 

夢や目標にタイムリミットはないから、今更こんなこと願ってても遅いかなとか、これ叶えるには遅いかなとか、いらないんですよね。

 

ハリーポッターの生みの親JKローリングや、数々のヒット曲を生み出しているSiaも遅咲きのアーティストとして有名なように、叶えばいつでもいいんです。

 

時間とかお金とか技術とかコネとか語学とか才能とか、そんな言い訳は置いといていいの。

 

何がやりたい?

来年の今頃、何ができるようになってたい?

 

過小評価しないで想像したい未来です。

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ありのままを表現することの難しさ

私は自分を表現するのが好きです。

しないと窒息します。

 

そんな私、ブログ何ヶ月も更新できませんでした。Twitterも満足に投稿できてません。書ききれなかった投稿たちが山積みになっています。フラストレーションが積もるばかりの毎日。

 

ここ最近そんな感じの私がずっと考えている、表現するって何?について書きたいと思います。

 

▼表現できない

表現するの、私は好きなのに苦手です。

絵であり、ダンスであり、言葉であり。

 

好きだからやっていても、ほとんどの場合はうまく表現できなかったり、頭の中に浮かぶのに表に出てきません。そんな時は、誰にも理解してもらえないような気がして苦しい、もどかしい。

 

声帯を取ったかのように、口は動かしているのに声にならない。

英語を話し始めた時のように、意見があるのにうまく形にできない。

 

だから、布団に籠もります。

「今の自分にはそんな能力ないんだ」「そんなんしなくても問題なく地球は回り続けるんだよ、諦めな」と言い聞かせる。

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でもそんなに諦めがいい性格でもなく、籠もっていても何か変わるわけではないので、しばらくすると出てきます。

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それから考える。

「詰まってるものはなんだ?」

 

この詰まりをしばらくツンツンし続けると、何かの拍子に濁流のように溢れ出てきます。誰かの言葉だったり、見たものだったり、音楽だったり、映画だったり、きっかけは様々。布団の中でないことは確かです。

 

下水管工事みたいに、茶色く濁ったドロッドロの私の『思い』や『感情』や『意見』みたいなものが流れ出てくる。一度流れ始めたら自分の意思では止められません。数時間で消えることもあれば、数週間から数ヶ月続くこともあります。

 

急いでかき集めては、ご飯を食べるのも忘れて言葉を紡ぎ、絵を描き、何かの形にします。そうしてキレイになったものが出来上がる。

 

濁流をろ過して透明の水にする。

 

私にとって、表現するってこんな感じ。

魔法が上手に使えなかったエルサ(アナと雪の女王)みたいだなあと思う。いいものは持ってんだけどなあ(自分で言う)。使い方がいまいち分かってません。

 

▼自分は誤魔化せない

いくら周りから個性的だと言われ、自分の意思のままに生きていると言われても、自分のことは誤魔化せないなあと感じることがあります。

 

私は自分に嘘をついている。

自分の嘘に縛られている。

 

自分のことをありのまま表現しているように見えて、人にこう思って欲しい自分を表現してしまうことがよくあるんです。

 

「私にこんなことを言って欲しいんだろうな」と思って発言したり、「こういう私だと思ってるだろうな」と思って行動したり。

 

学校や職場でも、先生や上司に対して「こういう答えが欲しいんだろうな」とか「これを提出したら気にいるだろうな」を探ってきました。気に入られ方を探っていたし、この『人が欲しいことを察する能力』は、いい成績を取ったり、賞を取ったり、いい仕事をもらったり、スポーツで勝つことにも役立ちました。

 

でも、私が表現したい私は、誰かの理想でもなく、何かの基準でもない『私』です。

 

見栄を張るための絵を描いたところで、お手本みたいな文章を書いたところで、誰かを真似たような写真を撮ったところで、『私』は表現できていません。

 

他人の真似事ばかりしていては、人と自分との区別もつかなくなる。人に好かれることばかり追求していては、大衆に埋もれていきます。私の代わりになれる人がたくさん出てくる。私じゃなくてもよくなる。

 

そういう嘘やモヤモヤをほっといておくと、周りにホコリが溜まって大きくなって、私の身体のどこかで詰まり始めるんです。

 

自分に嘘をつき続けた時に自問する『私らしさって何?』でさらに苦しくなり、窒息します。

苦しくしているのは私自身。

 

▼その表現に意味はあるか?

ニュージーランドで個性を尊重する文化の中で暮らし始めてから、『私』のあり方について考えています。私は好かれようとして生きてきたんだなと気付く。

 

しかもそれは仕事や学校だけにとどまらず、自分の幹の部分を表現するアートや文章にまで影響するようになってしまった。癖になってしまっていた。

 

SNSを見れば、共感や賛同を得る目的の投稿が溢れます。私もその世界のど真ん中に埋まっている。今の世の中の流れから一歩外に出る機会をつくらないと、『私』が無くなるような気がする。

 

みんなに好かれようと愛嬌を振りまくマスコットみたいな生き方をして、何になる?

 

嫌われてもいい、とは違うの。

 

ただ、ズブズブとマスコット化させている私というキャラクターに気がついては、我に返り、一歩下がり、また息ができる安堵で泣いている。まだ、息が、できる。

 

私が『私』を表現できないのなら、その表現に、その生き方に、どんな意味があるのでしょうか。ありのままの自分を見せることがこんなに難しくなったのは、いつからだろう。

 

強さってなんですか

こんにちは、ニュージーランドでパーソナルトレーナーをしているmikikoです。

 

最近、週に1回は必ず1人でコーヒー片手にボーッとする時間を取っていて、自分の頭のなかのぼんやりとした考えを輪郭のある形にする習慣をつけています。

 

見たもの、見えないもの、聞いたもの、聞こえないもの、触れたもの、触れたかったもの、考えたこと、考えさせられたこと。

 

文にしてみたり、図にしてみたり、絵にしてみたり、音にしてみたり。

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ブログが止まっていたのもその関係です。

 

パーソナルトレーナーという職業柄、giveばっかりになってしまって自分の中身がすっからかんになると感じることが多々あります。自分でtakeする時間を作らないとバランスが崩れる。

 

アンパンマンみたいに顔をあげすぎると元気なくなっちゃうわけ。私の世界ではジャムさんとバタさんがいないので、自分で顔を作ってあげなければならんのです。ほんとあのアニメよくできてるよね。

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仕事では全力でgiveしたいので、思いっきりtakeの時間を取ることにしたんです。

 

今日はそのうちの1つのトピックについて話をしたいと思います。

 

愛と強さについて。

 

 

▼笑顔が武器であり弱点

以前、こんなことを書いたことがあります。

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私は、悲しみを笑顔で隠せてしまうタイプの人です。

正確には、そういうタイプを長らくやっているうちに、悲しみを表現するのが苦手な人になってしまったです。

 

ダンスのレッスンを始めて以来、表現の世界に足を踏み入れ、そのサビついた引き出しも少しずつ開けられるようになってきました。と同時に、私と同じように悲しみを笑顔で隠している人が見分けられるようになってきたんです。

 

過去の失敗談。
失恋経験。
誰かに言われた嫌なこと。
誰かにされた酷いこと。

表面だけ見ると、笑い飛ばしてしまっているように見える。強い人っていう印象のその人たちは、強いのではなく、強がりさんだ。

 

▼向き合う時間

悲しい話って、悲しいんです。

だから、悲しい顔をしたり泣いたりするもの。

 

さっきのツイートでも話したけど、悲しい話を笑って話していくうちに繊細なシステムはバグると思う。悲しい感情の引き出しに鍵がかかる。人前で泣けなくなる。

 

悲しい話を悲しい顔でできない。

 

泣き崩れてしまったような悲しい経験も、ベッドから出れなくなったくらい傷ついたことも、笑顔で話せてしまう。私はそれを技術と呼んでいます。強がりさんは技術者なの。

 

なんで悲しい話を笑顔でするんだろうか。

 

笑顔で話さないと泣いてしまうからだと思うんです。

 

だから、笑顔という武器を使って隠すんだ。

 

1人でいる時に、その悲しいことについてぼーっと考えていると悲しくなるはず。涙も出そうになる。だから考えるのをやめる。つまり、ちゃんと向き合う時間を作っていないんです。向き合うと、その時の辛い気持ちや悲しくて泣いちゃって仕方がない感情が戻ってきて怖いから、見れない。

 

痛いものを見ずに次に進む。世ではこれを「立ち上がる」と呼びますね。本当にそうかな。

 

▼始まる前に終わらせる

具体的に言えば、私の恋愛。

 

1年半前に別れたヒゲ(5年付き合ったニュージーランド人)とのことも、その後に会った人に酷い扱いを受けたことも、私はちゃんと向き合ってきてません。痛いから。

 

もちろん、笑顔で話せます。たぶん悲しい顔して話したら泣いちゃうと思う。

 

当時はズンと沈んだけど、仕事を休むこともなく、1人の殻に閉じこもる時間を作ったわけでもなく、いつも通りの日常のリズムを崩さずに生活していました。

 

一見すると、立ち上がって前に進んでいるように見える。私もそう思っていた。

 

でも考えてみたんです。

ちゃんと向き合ってないから、怖いままだ。

1つの恋が終わることが怖い。

 

そんなんだから、次にもいけておりません。

次のことを考えようとすると、知らぬ間にもう終わった時の痛みのことを考えてる。

 

始まる前に、終わった時のことを考えてる。

 

どうせ別れてあの痛みや悲しみを経験しなきゃいけないくらいなら、始めないでいいじゃないか、と。

 

独身生活はそれなりに充実して楽しくはあるのだけど、いい出会いにはオープンでいます。でも実際にいい出会いが目の前に来ても「私はこういうの本当に欲しいと思ってるわけ?」とか「仕事と両立させるくらいの根性ある?」とか「私は独身ですでに超ハッピーに暮らしてるから必要なくない?」とか考えすぎちゃうの。

 

「あれ、前、進んでないんだ」って気づいた。

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▼強さって何だ

立ち上がる時の労力をなるべく軽くするために目をそらして、もう痛みを感じなくて済むように壁を作って自分を守っている。だから笑って悲しい話をする。これは強さとは言いませんね。むしろ弱点です。

 

でもそうやって壁を作って自分を守る人生と、痛みも悲しみもあるけど感情に正直に生きる人生と、幸せなのはどちらでしょうか。

(そもそも幸せって何だ、とまた別の思考に走る私ですが、そのことはまた今度。)

 

強さっていうのは、弱さを見せることができるというのは違う気がする。

折れないことでもない。

落ち込まないことでもない。

 

強さっているのは、向き合うことができること。それから1回折れた後にも「次も折れるかもしれない」と知りながらまた立ち上がること。

 

折れることさえもできず、過去に折れたことすらも向き合えていない私のような強がりさん、結構よく見かけます。

だから、
どんな言葉をかけるのが適切か?
この人の真意はなんだ?
過去に何があったんだ?
どんな感情がこの人を立たせてるんだ?
なんて考える機会がたくさんある。

  

皆さんの周りにいる強い人、陽気な人、面白い人。その強さは弱点だったりするんじゃないでしょうか。そんな視点で考えるのも時間の無駄ではないように思います。

 

ニュージーランドで原爆の話をする私

こんにちは、ニュージーランドでパーソナルトレーナーをしているmikikoです。

 

8月9日は長崎原爆の日。地球上で最後のピカドンが落とされてから75年になります。

今日は、私がニュージーランドで原爆のことを話して感じた私たちにできること・すべきことについて考えます。

 

▼なぜ私が原爆の話をするのか

私の育ちは東京ですが、家系は長崎にあります。

東京の学校ではあまり原爆のことは習いませんが、夏休みを長崎で過ごすことの多かった私には、8月9日にサイレンが鳴ることも、資料館で焼け焦げた展示物を見ることも、戦争関連の映画を見ることも、夏の行事のひとつとして捉えていました。

 

祖父母が原爆を経験したことも、戦争のことを初めて習う小学校低学年時には知らされていたので、特になんとも思っていなかったというか、特別な思いを寄せることもなく、現実味のない歴史話でしかありませんでした。

 

でも、私の中でこの原爆への意識が大きく変わったのは2017年。
 

初めて爆心地から空を見上げて以来です。

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「じいちゃんもばあちゃんもこの空見てたんだ...。」

 

「原爆が落とされた日に、じいちゃんかばあちゃんのどちらかがここに立ってたら私は今ここにいなかったんだ...。」

 
「焦げた人と溶けた皮膚と帰ってこない人たちの話ばかりする毎日ってどんなんだよ...。」
 
「津波の後に海が見れなくなるように、戦争の後は空を見れなくなったんじゃないのかなあ...。」
 
そんなことを考えていました。
 
目を閉じたら、空から落ちてくる爆弾が見えるような気がした。
ヒューーーって音が聞こえて、最後は音がなくなって、そのままドカンと光って私の身体が吹っ飛ばされて、真っ白になった。
 
君の名は。でそんなシーンがあったなあ。
そうやって人は死んだんだなあ。
 
目を開けたら、何も変わってなかった。
時間が巻き戻って1945年に行ったけど、また2017年に戻ってきたようでした。
緑がいっぱいで、風が吹いていて、人が歩いていた。
 
今まで歴史で習ってきたことが、初めて全部自分の体感になった瞬間でした。

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 ▼じいちゃん

私が爆心地を訪れた次の日、じいちゃんが原爆投下の翌日に爆心地にいたことを知りました。

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(見せてくれた被爆者手帳)

 

「原爆落ちた時何してたの?」って聞いたら、初めて教えてくれたことだった。この質問をしたのは8歳の時、学校の宿題で戦争体験を聞いた時以来。その時はこんなこと話してくれなかった。

 

真っ赤に燃える空が広がる方向に向かって電車に乗り、そのまま2日間、浦上町で救助を手伝っていたらしい。当時15歳とかのじいちゃんは、溶けた皮膚を引きずって歩く人や、井戸に積み重なった死体や、目が飛び出た死体を見ていたんです。私が教科書や映画で習ったあの風景、じいちゃんが見ていた。

 

その記憶が私の血液にも流れていた。そんな気がした。

 

原爆投下の翌日、まだ街は燃えていたはず。

瓦礫の下敷きになった人の声もまだ聞こえていたはず。

病院の受け入れ待ちをしている間に死んでいった人もたくさんいたはず。

まだ血も流れていたはず。

身体が焼ける匂いも。

 

そんなことがあった2017年以来、「この被爆者の体験を英語で世界に伝えられる人ってどれだけいるんだろう」と考えるようになりました。私のじいちゃんの体験談は、どの歴史資料にも載ってない。今となっては私の家族しか伝えることのできない話。私が紡がないと、どこかで途絶えてしまう。

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じいちゃんが言っていた「アメリカも日本も悪くない。戦争が悪いんだ。」という言葉、どうにかして伝えないと。 

 

▼原爆の話への反応

 そんな気持ちから、こんな記事を書きました。

ニュージーランドの学校では深く習うことのないHiroshimaとNagasakiのこと。私は知っている。聞いて欲しい。何が起こっていたのか聞いて欲しい。

 

一番多かった反応は「こんな貴重な話をシェアしてくれてありがとう」という感謝の言葉でした。私が今まで当たり前のように知っていた原爆の話を熱心に聞いてくれる。今しか聞く機会がないかのように。

 

目をまんまるくして驚いて話を聞く様子を見ると、自分の立場の特別さに気づかされます。

 

それから彼らが読んだ原爆に関する英語の記事について話をしてくれます。

その話は、私が聞いたことがないものばかり。

台湾に遊びに行ったとき、日本軍がどうやって台湾人を虐殺していたかの資料があって「こんなの学校で教わってないんだけど!?」ってなったのを思い出す。

 

日本語では収集しきれないアメリカ側の情報や、政府が話したがらない都合の悪い情報を、英語だと学ぶことができます。これは本当に、他言語を学んだ人の特権だよね。

 

誰が悪かったか、あれが正しかったのか、そんな話はしない。

ただただ、何が起こっていたのかを話している。

そして、もうあんなことは起こっちゃいけないね、と話す。

 

▼私たちにできること

- 話をする

こうやって、意見交換や情報交換が気軽にできるのが現代のいいところだと思います。

75年経った今、唯一の被爆国っていうのは私たちにとっては当たり前のことかもしれませんが、他の国にとっては私たちからしか聞けない話。貴重なんです。

ドイツのアウシュビッツの話
ロシアのチェルノブイリの話
アフガニスタンの戦争の話
ミャンマーの難民の話

どれもニュースで読むのと本人たちから聞くのでは全然話が違う。私たちが知ってることは、人々が知る価値のある話です。もっと話されるべき。聞きたい人はたくさんいる。

 

だから、私たちはもっと自分からこの話を持ち出すべきだと思う。私たちにとっても、外の意見も聞けて、自分の偏った知識を修正することができるとてもいい機会になる。

 

こうやって話をすることが直接何かに役立ったと感じられることはないかもしれません。でも、いつか戦争が起こりそうになった時に、戦争がダメなものだと当たり前のように考えられる人が増えるように。繰り返さないように。

 

語り継ぐ。それが私たちにできること。

 

- 核について考える

ニュージーランドには原子力発電がありません。

そんなこの国では、世界で唯一の被爆国である日本が原子力発電に頼っていて、2011年の津波でまた核で人的被害を出す国になってしまったことは皮肉だと捉えている人の話をよく聞きます。

 

首相のジャシンダも、核は廃絶すべきとのメッセージを出している。

 

核の廃絶については、まだまだ日本では賛否両論のあるトピックだけど、私たちの年代には意見を持たない人が多い気がします。調べて考えて意見を持つことで、家族や自分の身を守るために必要なことが見えてくるのではないでしょうか。

福島第一原発で分かったと思うけど、事故が起こってからでは遅いから。

 

▼まとめ

自分が見たことも体験したこともない戦争についてここまで深く考えるようになったのは、25歳になってから。知っていたことが心に響くまでには時間がかかりましたが、これから私は私の役割を果たしていこうと思います。

 

じいちゃんの言葉がこのまま消えないように、私はニュージーランドで原爆の話を続けます。

仕事盛り28歳が考える「成功ってなんだ?」

こんにちは、ニュージーランドでパーソナルトレーナーをしているmikikoです。

 

この間、オークランドのビバリーヒルズ的なところを散歩していて「この家に住む人たちって幸せなんだろうか」という疑問が頭をよぎりました。

 

それ以来ずっとこの「成功ってなんだ?幸せってなんだ?」という部分について考えを巡らせてモヤついていたので、今日は、そんな28歳の等身大の人生観について語らせてください。

 

▼成功の定義

人それぞれ「成功」の定義ってあるはずです。

年収1000万とか、家庭を持つとか、結婚するとか、いい会社に就職するとか、上司になるとか、経営者になるとか、いい車買うとか、いい家に住むとか、子供がいい大学行くとか、一等地に住むとか、日本一になるとか、世界一になるとか。

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夢や目標を持ってその「成功」を目指すでしょ。

そしたらいつの日か、夢が叶ってその「成功」を手にします。

めでたしめでたし。

そこで終わるんでしょうか。終わりません。

その最初の山を登り終える頃には、また新たな夢を見つけて、新しい「成功」を目指します。

 

ニュージーランドで生活してると
If you are comfortable, you are not growing.「のらりくらりな生活をしてるってことは、自分を成長させてないってことだ」
と言われるのです。

 

私もそんな言葉に背中を押されてこれまで突っ走って来たわけですが、ふと立ち止まって考えてみました。

 

本当にこれでいいのだろうか。

 

▼成功と責任

世間で言う「成功」している人たちや芸能人を見ていて思うことがあります。

 

いつも時間に追われていて、世間からの期待というプレッシャーに耐えていて、部下や後輩を支える責任にも耐え、家族を養うという責任も抱えていることもある。

 

よく疲れています。

でも、その疲れすらも人に見せないように頑張っている。

 

それでも彼ら彼女らは「やり甲斐を感じる」と笑顔でいいます。

夢の力はすごい。

 

大丈夫かなあと見守りながら、私は

「やり甲斐だけでどこまで進んでいけるのだろうか」
「たまにプツンと切れたりしないのだろうか」
「その底無しのエネルギーはどこから来るのだろうか」

と、尊敬と心配と混ざった気持ちを抱えながらそんなことを考えています。

 

努力で夢を叶え、名誉を築き、地位を築き、お金を稼ぎ、その稼いだお金で身体を労わるために自分にご褒美を買っている。

 

そんなサイクルが、みんなの夢見る「成功」なのだろうか。

 

そのサイクルの最後にあるご褒美も、以前は数万円のバッグだったものが、いつの日か数十万円のバッグじゃないとご褒美にならなくなるでしょう。

 

目標だった年収1000万円になるころには、自分が関わる周囲の人も、同程度かもしくはそれ以上稼ぐ人たちになりますね。そしたら自分はいつまで経っても平凡から抜け出せないのではないでしょうか。

 

今までの当たり前が、もうそれだけでは満足できない場所になる

 

夢を叶えたら次の夢が出てくる。

 

成功という概念に天井はあるのか。

 

▼小さな鉢で可憐に咲く

可能性は無限大。
人はいくらでも成長できる。
でも、伸び代を埋めることだけが成功なのでしょうか。

 

私が最近買ったシクラメンの花を摘みながら、こんなことを考えていました。

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私、太陽を浴びて成長しようとするシクラメンを、大きくなりすぎないように摘んでいるんです。

小さな鉢植えで綺麗に咲くように。

 

今よりもっと成長できる能力があると知りつつ、でもあえて小さな鉢植えに押さえ込んでいる。きっと、もっと大きな鉢植えに植えればもっと成長できます。でも私が欲しいのは、小さな鉢植えで綺麗に咲いてもらうこと。それでもハッピーになれるんです。

 

ゴミ箱に捨てたシクラメンの花や葉を見ながら、「前へ前へ成長すればいいってもんじゃないのでは」と考えることができた。これは私なりの大人の階段だった。

 

地平線まで続く花畑になるまで大きく育てなくたって、小さな鉢植えで可憐に咲くこともまた成功だと思う。

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常に成長を求められるような環境にいて鈍ってしまった感覚ですが、大きく前進し続けることよりも、いつ止まればいいのかを知っていることの方が現代の社会では結構大事な技術なのではないでしょうか。

 

「前に進まない」と「成長を止める」は異なるはずなのです。

 

▼ねえ、まだ満足してないの?

「mikikoって何やってもできるよな」

昔から友人たちに言われてきた。

 

 

勉強もスポーツもできた私は、周囲にこんなことを言われても「まだ足りない」「私よりできる人いるし」と思い続けてきた。人からは努力家だったり向上心の塊だと言われてきた。

 

でも今になって「ねえ、私、まだ満足してないの?」と思う時がある。

 

私はきっと、あのビバリーヒルズの家に住んだところできっと満足しないタイプの人間だ。

向上心の塊なんじゃなくて、止まり方を知らないだけなのかもしれない。

 

勢いがついて楽しいから走っているうちはまだいいかもしれないけれど、止まりたいのに止まれなくなって脚が壊れるまで走らなければいけないのは避けなければ。

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▼成功ってなんだ?

成功ってとても曖昧な概念ですよね。そして流動的。

今日考えてる成功って、きっと5年後には覆ってるもん。

 

ニュージーランド版ビバリーヒルズの家々を見ながら、私の「成功」がどこにあるかを考えています。

 

Do you think you are successful?「自分が成功していると思う?」

Are you happy?「幸せ?」

 

この2つがクロスするところを探している。

まだ答えは出ていません。

 

答えは出ていないけど、以前まで抱えていた「前へ進まねば!」が無くなって肩の力が抜けたような気がします。

 

そして今日も、小鉢に咲くシクラメンを摘むのでした。

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黒人差別反対運動に対して私が出した結論

こんにちは、ニュージーランドでパーソナルトレーナーをしているmikikoです。

 

先日のツイートとブログが嵐を呼びました。

www.fitfitnzlife.com

 

2日で500万人を超える人の元に届いたようで、「ニュージーランドの総人口より多いんですけど...。」と改めてソーシャルメディアの拡散力を思い知らされています。

 

「こんな難しいトピックを実名顔出し職業出しで語った私、偉いよ...」と小さく自分の肩をポンポンしながらたくさんの意見に目を通しているうちに、自分でモヤモヤしていた部分がクリアになってきたので、私なりの考えを聞いてください。

 

 

 

▼意見が割れた

何千何万の人からの意見が目に入ってくる環境にいさせてもらえた経験は、なかなか貴重でした。

 

「ほんとそれなんだよ」と共感する人。

「私も同じことをぼんやり思ってたけど言葉にしてくれてありがとう」と感謝を伝えてくれる人。

「黒人差別とアジア人差別を比べるなんて!!」と怒る人。

私の勉強不足を指摘するだけの人。(じゃあ教えてくれや)

自分のアジア人差別体験をシェアする人。

 

万人に好かれようとも思っていないし、万人に賛成してもらおうとも思ってないので、特に怒っている人を説得するとかもしなかったのですが、なんで「そうだそうだ」と言う人と「比較するなんてなんと無知な!」とこんなに意見が割れるんだろうか、と考えていました。

 

最初は、黒人差別とアジア人差別の比較をすることに怒る人意見を見ると、心のモヤモヤが大きくなって直視できなかった。自分と異なる人の意見を受け入れるのにはエネルギーがいります。

 

相手は正しいことを言ってるんだけど、私が間違ったことを言ってるとも思えない。

私の発言が見当違いでもないことは、共感している人の人数から見ても明らかでした。

 

そもそも、私だって考える脳味噌がある人間なので、怒らなくても普通に伝えてくれれば分かるんですよ。ブツブツ。間違ってるならシンプルに間違ってるよって教えてよ。ブツブツ。異文化や歴史の専門家ではないしアメリカにも住んでないことはプロフィールからも明らかでしょ。ブツブツ。

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たぶんケツの青い反抗期だったらそれで終わっていたのですが、28歳の私はそうやって少しやさぐれつつも「こんな人なんかに怒って物を伝えてしまうそのエネルギー。発言者の裏には何かあるんじゃないか。」とも考えていたのです。

 

▼別の話をしていたんだ

よーく観察してみると、怒っている人たちの多くのは、アメリカの歴史や文化に詳しい人たちや、アメリカに住んでいる人たち。

アメリカの外に住んでいる人たちの多くは私の発言に共感していました。

 

そこで私は気付いた。

きっと私たちは同じことについて話をしていない。

 

Black Lives Matterのムーブベントの主体はアメリカで起きています。警察官に理由もなしに殺されたり、逮捕されたり、命の危険にさらされている黒人のために人々は立ち上がっています。いま渦中にあるアメリカに住んでいる人は、BLMと言ったらまさにあの国で起きていることに対して話をしています。

 

一方、私のように渦の外でBLMを見ている人たちの多くは、BLMのことを話していながら、アメリカのことを話していない。実体験や身の回りの人のことを考えながら発言しています。もっと一般的な黒人差別とBLMと混同しているようです。

 

現に私も、ニュージーランドに住んでて見たことや、ニュージーランド人と話をしことを元に発言をしています。BLMって言っておきながら、もっと大きな括りで差別問題のことを話していた。これは自分でも気付かなかった。BLMじゃなくて黒人差別って言うべきだったんだと思う。

 

だから私は「そんなことアメリカで言ったら大批判受けるよ」とか「アメリカの歴史もっと勉強すれば」とか「よく黒人の奴隷制度とアジア人の嫌がらせを比べられるね」みたいな正しい発言にも「私の趣旨と違うんですけども...。」とモヤモヤしていたのです。

 

アメリカの中のことなのか、外のことなのか。
BLMのことなのか、黒人差別全般のことなのか。
この差は大きい。

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私には差別に関して世界をひとくくりにして話せるほどの知識はありませんが、この大事な部分がズレたまま話が進んでしまう原因は

  • アメリカの外では、黒人差別があれほどの規模や頻度や程度で起きていないこと
  • 地域によってはアジア人差別や別人種の差別の方が黒人差別より深刻なこと
  • そもそも寿司(スシ・sushi)ですら住んでる国によって認識が違うんだから、同じ話題でも認識が異なること

ではないのかなあと、そんな仮説を立てています。

 

とにかく、私の中でアメリカが舞台のBLMとアメリカの外が舞台のBLM(=一般的な黒人差別)で事情が異なる、ということで納得しました。

 

そしたらね、自分がどんな立場を取ったらいいか分かったんです。

あれだけ悩んでモヤモヤしていたこと、晴れていきました。最善策かは分からない。でも私にはこの答えしか出せなかった。

 

▼モヤモヤの正体

私がニュージーランドのBLMマーチや友人たちの真っ黒投稿を見てモヤモヤしていたのは何か一貫性のないような、解決にもつながっていないような行動が原因でした。

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確かに今多くの人が無慈悲に殺されているのはアメリカでの差別です。それに立ち上がるのは間違っていない。

 

でも、地球の反対側からマーチに参加して真っ黒な投稿して、誰が助かるのだろうか。

私が実際にアメリカで黒人の立場にいたら、本当に必要なのは、逃げ出した時に受け皿になってくれる制度や、国内で生きていく為に必要な金銭面でのサポートや、低所得のサイクルから抜け出せるようになる教育サポートだと思う。

 

クライストチャーチで集団虐殺があった時も、This is not us!とSNSでサポート姿勢を見せることにどれだけの効果があったのだろうか。

実際に助けになったのは、ビザをサポートしてくれる制度や、援助金や、実際に何か行動で助けてくれた団体なのではないかと思う。

 

震災が起きて大変な思いをした私たちは、世界中のPray for Japanな投稿を見ても、認知度が広まるだけで直接的な助けにならなかったことを知ってるじゃないか。一番助けになったのは、世界中からの援助金や、被災地の特産品を買い物をしたことだったじゃないか。被災地から逃げてきた人は、受け入れてくれた制度に少し頼ることができたじゃないか。

そうやって逃げてきた人たちを放射能と呼んで差別していた人たち。差別されている人がいるのを知っていて何もしなかった人たち。そんな人たちがBLMをサポートすることに一貫性はない。

 

そもそも、多くの人が死んでいることに声をあげるのが優先なら、ミャンマーで起きている虐殺や、アフリカで起きている紛争や、中東で起きていることだってもっと以前から優先されるべきことだったんじゃないの?優先順位って、死んだ人の人数で決められるの?

世の中は矛盾だらけだ。

 

私はあの真っ黒の投稿たちを見て、

  • 目の前で起きている差別に対しては特に何もしない。
  • むしろUnconcious Bias(自覚のない差別)をしてる。
  • 地球の向こう側で起こっている差別に対して、あまり直接的な効果もなく金銭的なサポートもしない方法で声だけ上げて自己満足になっている。

そんな人たちに対してモヤモヤしていたのです。

 

▼人のことばかり言っちゃってさ

声を上げることに意味がないとは言わない。

でも私は「声上げるだけで何かやった気になるくらいならば、もっと実際に役に立つことに時間とお金を使うべきだ。」と思っていました。

状況を分析していた。

一歩下がって状況を判断してると思っていた。

 

そこで気付いた。

 

アジア人差別の方は軽視されやすくないか?とか生意気に発言した私こそ、今まで何もしてこなかったじゃないか。

 

自分やアジア人が受けた差別にも、ニュージーランドでマオリやポリネシア人が受けている差別にも、日本で在日コリアンや在日中国人が受けている差別にも、アメリカで黒人が受けている差別にも、世界中で起きている女性差別にも、不快に思うだけで何も行動してこなかった。

 

そうやって色々不快に思ってる自分だって、無意識のうちに差別していたことあるんじゃないだろうか。

 

矛盾の塊な私。

そんな私がこの記事を書いている。

 

でもそれを認めて、私は前に進みたい。

これを機に今度こそ何かしたい。

たぶん今これだけモヤモヤしているのに何もしなかったら、今後も何もしない。

このままだときっと、誰か身近な人が差別が原因で殺されてしまうまで他人事だ。

 

今、できることは何か。

人種差別なんて問題が大きすぎて私一人にはどうしようもできないだろうか。 

この世界地図の端っこに住んでいる、歴史にも名前が載ることのない28歳独身女に何ができるか。

 

寄付だ。

 

▼サポートできる人をサポートする

有能な専門家たちが集まっても、国連が何十年も扱っていても、国のトップがどれだけ交代してもなくなることのない人種差別。私一人に変えられることではありません。

 

職業がパーソナルトレーナーである私は自分の専門性を高めることの方が優先なので、仕事の合間に歴史や異文化理解に時間を裂くくらいで手一杯。私みたいに、モヤモヤしてるけど自分の生活が優先な人はたくさんいるはずです。

 

直接人種差別と最前線で戦うことは現実的には難しいけど、直接戦ってくれる人たちをサポートすることはできる。

人種差別根絶のために動いてくれている団体に寄付することはできる。

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私は、アメリカの黒人のように差別のせいで命の危機に晒されるようなこともなく、低所得層が受けられない教育の機会を当たり前のように与えられて、生活に支障が出るような差別に合うこともなく、在日の人たちのように自分のバックグラウンドを隠さなければいけないような立場に置かれたこともありません。

 

生まれながらにして持っているこの特権、当たり前に思ってはいけない。

ヒーローごっこじゃなくて、本当に形になることに使いたい。

 

「ソフトバンクの王社長のように莫大な金額を出して援助することはできないにしろ、今の私にできることをやる意義はあるはず」と手に持っているビスケットを見て思う。

 

このビスケットの代わりに寄付できたんじゃないの?

 

▼これが無名の私の答えだ

歴史が深く関係する差別問題に私は詳しくない。

アメリカの問題にも詳しくない。

ニュージーランドや日本の問題も直視してない。

寄付する先すら知らない。

これだけ色々言っておいて、何も知らない。

 

だから私は調べないといけない。

知ってる人から学ばなければいけない。

知識が増えれば、またもっとできることが見つかるはずです。

 

自分が今まで矛盾したことばかりしていたことも認めて、未来を変えるために寄付と勉強。

 

今は仕事の合間に人種差別の記事を読んだりしながら勉強しつつ、母国日本と、第二の故郷ニュージーランドと、遠い国アメリカで人種差別根絶に向けて動いている団体を探しています。

 

それが今の私の答えです。 

 

黒人差別反対運動に参加できていない私

こんにちは、ニュージーランドでパーソナルトレーナーをしているmikikoです。

 

今日は、今起こっているBlack Lives Matter(黒人の命にも意味がある)運動について。

私はなんの立場を取ることもできていません。考えがまとまらず、意見することもできず、結果としてSilent Majority (物言わぬ多数派)になってしまっている。でも意見がないわけではないんです。

 

どちらの立場をとることも行動に移すこともできてないけど、私の考えを聞いてください。

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▼困惑している

私のSNSのフィードも友人たちのBLM投稿で埋め尽くされています。黒人も白人もアジア人もその他の人種も、みんなが黒人差別のことについて話している。でも私はこのムーブメントに参加できずにいます。

 

ただ困惑している。

 

また、アジア人と白人の20〜30代の女友達10人ほどと意見交換をする機会がありました。

あなたも怒ってるよね!?という意見を期待されてるのですが、私は怒ることもできていない。

 

▼ニュージーランドの人種差別

 以前にも記事に書いたのですけど、多文化共存がうまくいっているニュージーランドにも人種差別はあります。

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2019年にクライストチャーチのムスリム集団射殺事件の際は、この記事がきっかけで報道機関から取材を求められたこともありました。

 

この事件が起きた時、多くの人が「こんなことが起こるのは本来のニュージーランドじゃない!」という意味でThis Is Not Us!がスローガンになったんです。

 

私はこの時も困惑していた。

 

ニュージーランドにも人種差別はあるのに、この人たちはそれをなかったことにしてる。見えてないフリしてる。なにがThis is not usだ、インド人や中国人のことを嘲笑したり、アジア人のことをからかったり、ニュージーランド出身のアジア人に「国に帰れ」なんて言うの、日常茶飯事じゃないか。

 

だからこの運動にも私は参加できなかった。

 

▼サポートする人種を選ぶのか

コロナが中国の外に出始めた1月ごろ、ヨーロッパではHey corona!とか言われて暴力を奮われたり嫌がらせを受ける事件が多発しました。

 

そのころニュージーランドでも、攻撃的な行動さえほとんど聞かなかったけど、中華料理レストランに行く人が減ったり、アジア人が歩いていると距離を置かれたりし始めていました。

 

人種関係なくコロナ感染が広がるまでの1ヶ月ほどは、私も差別的な態度をとられることがあるだろうと覚悟しなかればなりませんでした。肩身は狭かった。

 

だから、今回BLMの為に立ち上がってる人たちを見て、「ねえ、コロナの時中華料理レストラン行くのやめてなかった?」「クライストチャーチの事件の後、ムスリムの為にも立ち上がった?」「サポートする人種を選んでない?」と私は困惑してしまうのです。

 

そのことをインスタのストーリーにあげたんです。そしたら色々な立場の人から意見をもらえました。

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そのうちの1つがとても印象的でした。

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要約すると、

「黒人は500年以上もの奴隷時代の苦しみが今も続いているから社会は黒人の為に声をあげるのが優先してる。だからといって他の人種をほったらかしにしていいという訳ではないけど。」

 

それに対して私は「優先順位を付けなきゃいけないのは当然なんだけど、アジア人に差別的言動をする人たちがBLMに対して声をあげるのは、優先順位をつけているんじゃなくて、人種を選んでいるよね。」というような内容で返してます。

 

意見交換に答えはないのですが、こうやって話して意見を教えてくれる人がいるのは大変ありがたいです。

  

▼All Lives Matterにも賛同はしていない

誰かが怪我をしているのを見て、「ねえ私も前に怪我したとき痛かったの!見て見て!」って言ってるのではありません。

 

All Lives Matter(全ての人の命に意味がある)はその典型だと思っていて「あんただけじゃないんだ、私も大変なことあるんだ」っていうのは、目の前で血を流している人に対して言う言葉ではないと思います。

 

特に、私たちは理由もなく警官に殺されたり、強盗や殺人犯だと疑われる心配もほとんどありません。そういう意味ではまだ恵まれてる。生まれた時からすでに恵まれている立場に置かれているんです。

 

もちろんAll Lives Matterだけど、それは今言うことではない。

そしたら私は今、なんと言ったらいいだろうか。

 

▼肌色の話

みんな平等だと主張するのであれば、そもそも肌の色を話す必要が出てくること自体が間違っているんです。肌の色はアイデンティティーであってカテゴリーではない。上下関係も優劣も示さない。

 

私は「黒人のそばには近寄っちゃだめ」「中国人はあいつらほんと馬鹿なんだ」という言葉が使われる環境で育ちました。「そういうことやるのめっちゃチャイナだね」という友人の言葉もよく聞きます。

 

なぜカテゴリーでまとめなけれないけないのか。人を個人として見れないのか。

 

そうやってカテゴリー分けしてる時点で、自分をその人たちより上に置こうとしてるじゃないですか。人を選んで分けるなんて、恵まれた立場の人ができることでしょう。

 

だから、何色の何人がどうのこうの、というムーブメントに私は参加する前に考えてしまう。

 

▼声をあげないのは賛同してるのと同じ

参加してないけど、サポートしたくない訳じゃない。

考えてる。私の立場で何か言えることはないか。何かやれることはないか。今までの行動と矛盾するようなことはないか。

結果、黙ってしまっている。

 

それだけで気持ちは疲弊しているのに、追い討ちをかけるように

Silence is complicity.
沈黙しているのは共犯してるのと同じだ。

 

というごもっともな意見もある。

 

待って欲しい。私の考えがまとまって形になるまで待って欲しい。私にはすぐ形にできるほどの力量がない。

 

Being silent doesn't mean I have nothing to say.
沈黙してるからって言うことがないって訳じゃない。

悲しみが表現できないって悲しくない?

こんにちは、ニュージーランドでパーソナルトレーナーをしています、mikikoです。

 

今日は感情の引き出しは、使っていないと使えなくなることについて。

私には、人前に出ると鍵がかかって動かなくなる引き出しがあります。

 

▼ことの発端

去年ダンスを始めたんですけど、私が今ニュージーランドで教わってる先生は、技術的な部分よりも表現力個性に重きを置いています。

 

みんなも最初に教わった振りを繰り返しているうちに自分流のアレンジを混ぜてきちゃう。先生も直さない。大体のガイドラインがあって、その周辺を飛び回っていていればOKだよ〜という方針。

 

もともと敷かれたレールをキッチリなぞるのが得意なタイプの私は困惑です。

「ここフリースタイルで好きなように踊って〜!」と言われても大パニックで「あの、私のとこだけ振り与えてぐれまぜんが...!!」と言ってます(笑)

必死やで。

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そんなんなんでクラスの中でも遅れをとってると感じるので、たまに個別レッスンお願いするんです。

でもそれがね、私は技術を教わりに行ってるつもりなんですけど、蓋を開けてみればほぼ、私の性格と生まれ育った環境と今生きている環境のカウンセリングみたいになって終わっちゃうんですよ(笑)

 

そこで発見したことがある。

私には感情の引き出しが少ない。

 

▼ポジティブ人間、悲しみを表現できない

私は姉にすら「あんた落ち込むことあんの?」って聞かれたことがあるくらい根が明るいんですね。なんか嫌なことあっても折れない自信がある。というか、一度折れるんだけど、その後絶対起死回生するんですよ。負けて終わらない。

 

そもそも、解決策を探すことができるものは「悩み」ではなくてただの「不具合」なので、直せばいいじゃん、解決策を見つけるまで考えたらいいじゃん、解決できなさそうなのは投げちゃえばいいじゃん、というのが私の考え方。

 

根本にある性格がそんなんなので、まわりも「mikikoは明るくてスポーティーで元気なヤツだ」と私のことを扱ってきたのは当然のことだと思います。

でもそれがいつしか「私は元気なヤツという期待を崩しちゃいけない」と構えるようになっていたようです。

 

明るい強い人間として生きていくよう心がけてるうちに、悲しみを人前で表現できなくなっていました。

 

ダンスの先生に「顔と全身で悲しい時や苦しい時のことを思い出しながらダンスするの」と言われても、できないんです。一人でやったらできるのに、誰かが見てるとできない。

太陽が当たっていない自分の部分を見せるのに躊躇してしまう。恥ずかしくて。私はあなたのことをまだそこまで信用できてない、とか思ってしまう。急に鎧で全身をガードし始める。

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(エルサだ...。)

 

子供のころ、泣き虫人間だった私はいつしか人前でほとんど泣かなくなったし、暗い内容の相談事もしなくなっていました。自分で感情をコントロールして、感情にコントロールされないように生きていた。

 

ダンスの先生曰く、「それってきっと武道やってて習ってきた事じゃないの?」

 

確かにそうかも。5歳から10年やった剣道、精神面で特に学んだことはないと思っていたけど、こういうところで響いてきてるのかも。

 

▼浅い

日本でもさ、自分の悲しみを人前で表現すると「メンヘラだ」と煙たがられる環境じゃないですか。ニュージーランドにいてもそれはあまり大きな差がなくて、特に女として生きていると、喜びや愛以外の感情を表現することがマイナスに働くことの方が多いように感じます。

 

怒ったり悲しんだりしたらヒステリックだとか面倒だとかいう印象を与える。

ヒラリー・クリントンが大統領選で「 女性は感情的で信用出来ないと言われないために理性的であることを心がけていたら、感情が見えないので共感できないと言われた。」と言っていたのを思い出します。

 

そういうのに慣れていて気付かなかったのだけど、それってめちゃくちゃ息苦しくないですか。

いつも笑顔で前向いているのが理想で、感情をコントロールして抑えていて。

 

人は、押し込めることをコントロールと呼ぶのでしょうか。

 

私はそうやってコントロールして、人前に出ると悲しさを押し込めて、いつしか弱さを見せられない人間になっていたようです。
 
感情の引き出しが使えない。
なんだか人として浅くなった気がした。
 
弱さを見せられないのって、それがもう弱さじゃないですか。
悲しみが表現できないのって悲しくない?
 
悲しくて泣くのも、感動して泣くのも、怒って泣くのも、愛とか嬉しいとかいう気持ちと同じように私の一部として扱っていきたいなあと考えていたのでした!深さよ戻ってこい。

コロナと10年前の私の話

こんにちは、ニュージーランドでパーソナルトレーナーをしているmikikoです。

ロックダウンが終わったニュージーランド、日常が少しずる戻ってきました。

 

今日は、制限のかかったこの2ヶ月に私が考えていたことの一部をまとめてみたいと思います。

▼高校生の私のスランプ

ロックダウン騒動の中、私は高校生のころの自分を思い出していました。

 
高校生のころの私は、テニスのために生きていました。
本当に部活命の生活だった。
 
部活ばかり優先していて当時の彼氏にも愛想疲れてしまったし、何かチームのためにやれることが閃けば塾も休んでミスドでノートにアイデアを殴り書きしていた。
 
母に「今日ごめん、塾休む!部活のことでどうしても今日やりたいことがあるの。」と電話をした。止めなかった母には感謝しています。
今となっては、あの休んだ授業、1回いくら分だったんだろうとか考えてしまう。
 
全てをなげうっても全然辛くもなくて、むしろ楽しくて、没頭していた。没頭させてもらえる環境にいました。
 
そんな2年の終わり、私にスランプがやってきました。
試合でラケットが握れなくなった。飛んできたボールを打てば場外ホームラン。試合の時だけそうなる。
引退までに結果を出さないといけないというプレッシャーからくるスランプだった。
 
そんな状態が2ヶ月ほど続いた。それでも私を信じてレギュラーに留めてくれていた監督には頭が上がらない。あそこで外されていたら私は崩れ落ちていたと思う。レギュラーの席を狙っていたチームメイトには見せる顔がないなと思っていた。練習にも出にくいと感じていた。
 
3年の夏には引退が見えていた時期。
 
「これだけテニスに時間もかけて、努力もたくさんしたのに、こんな形で全て終わったらどうしよう。」
「おまけに受験までうまくいかなかったら、私はなんの為にこれまでやってきたんだろう。」
「私には何も残らない。」

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当時の私の頭の名はそんなネガティブな思考サイクルが止まらなくて、誰にも吐けない弱音を心の中で積み重ねていました。
 
そんなある日、耐えきれなくなって当時の男子バスケ部の先生の前で大泣きした。
 
「何も残らなかったらどうしよう」って、部活も何も関係のない、遠くから私のことを見守ってくれてた人にすがった。
 

▼リスクマネジメント

全力をかけてきたものが形にならないまま終わるという最悪のケースの不安から、高校で「何か形に残るものをやった」と思いたくて、体育祭でクラスをまとめるチームに入った。
 
ケツの青い私なりのリスクマネジメントだった。
プランBとして、何かやりはじめないと思ってた。
受験で滑り止めを受けるように。

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そんな受け身の姿勢で入ったもんだから、たぶんチームの人には迷惑をかけてしまっていたと思う。今でもあまり考えたくないくらい、申し訳なくなる。でも当時の私にはそれが精一杯だった。
 
結局、そのプランBがあることで肩の荷はおりて、私はスランプを抜け出すことができた。
試合にも復活した。最後の試合は満足いくものではなかったけど、多少の功績も残り、受験も第一志望に合格して、なんらかの形の残る高校生活にはなった。
 
だけど、私の中であの「もしだめだったら」と他のことに中途半端に手を伸ばしたことは苦い思い出として残っている。
 
もっと器用に色々と両立されながらやれたんじゃないか、と思ってる。
 

▼10年経って見た光景

コロナが世界を一転したあの数週間、環境は劇的に変わりました。
 
「一週間で仕事が半分以下になった」という人がいたり、「ストレスで耐えきれなくて昨日4000kcal分もお菓子食べちゃった」とか言っている人がいたり、「仕事全部キャンセルになって解雇同然になった」という人がいたり。
 
暗い雰囲気がオークランドの街全体にも漂っていました。
 
普段仕事に精を出している人たち。
汗水垂らして築いてきたものが音を立てて崩れていく。
色々なものを犠牲にしてまで作り上げてきたものが、一瞬のうちに煙のように消えていってしまう。
なんとか工夫してしっぽを掴んでいないと、指の隙間からスルスルと抜け出てしまうような感じだった。
 
犠牲にしてきたものが多い人ほど、この崩れるスピードの速さに耐えきれていない様子だった。
 
多くの人がどこかで泣いていた。
 

▼結局どれが正解なのか

「何も残らなかったらどうしよう」
 
そんな絶望する人々を見ていながら、私はあの日バスケ部の先生の前で泣いていた自分を思い出しました。
 
当時の私は、どうするのが正解だったのか。
 
今の私は、あの経験から何も学んでない気がする。
 
1つのことに全力を尽くせば、リスクの不安で心は押し潰される。
何か1つ間違った時に軌道修正はできない。
命を注いで作ったものが崩れていく怖さは計り知れない。
 
かといってプランBがあると、注げるエネルギーには限度があるので何かが中途半端になる。プランAが中途半端になれば本末転倒。滑り止め対策をしすぎて第一志望に落ちる受験生と同じ。
 
どちらをとってもベストな選択ではない世界で生きていませんか、私たち。

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人生でひとりがやれることは限られているじゃないですか。
全部はできない。
 
リスクを背負って全力でエネルギーを注がないと人との差はつけられない。でもリスクが大きすぎて不安も大きい。高校生の私はその不安には耐えられなかった。
 
コロナの騒動を見ていると、不器用なのは当時の私だけじゃなかったんだと思う。
 
正解はなんなんだろう。

28歳独身女、人生観を語る【結婚・仕事・友人・お金・将来】

こんにちは、コロナでロックダウン中のニュージーランドでパーソナルトレーナーをしているMikikoです。

 

今日は、28歳になった私の中でしっかりと芯が立ってきた価値観について赤裸々に話したいと思います。

 

一昨日でニュージーランドに移り住んで丸3年経ち、考えが変わったところが山ほどあります。たくさん話したいのですが、今日は結婚・仕事・お金・友人・将来なんてトピックについて。

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(コロナ騒動のこともあり、仕事に私生活に追われている間に3月が終わってしまいました。走り回って本当に大変で、ロックダウンになった日は海の底に沈んだ沈没船のようにくたばっていました。一息ついてやっとこさブログが書けましたー!)

 

結婚

結婚はしなくてもいいと思うようになりました。

したくない、ではなく、してもしなくてもいい。

 

私の「結婚しなくていい」の真意は、彼氏ができても別に結婚を視野に入れることなくパートナーとしてずっと一緒にいたっていいし、パートナー見つからなかったらそれはそれで好きな友達と一緒に過ごす時間が沢山あったら良いよね、というもの。

 

結婚するしないとかどうでもよくて、絶対しないとか絶対したいとかもなくて、そもそも結婚ってものに人生振り回される必要がないと思うのです。

 

あんなの紙っぺらの契約書なんて無くたって、本物の愛は本物じゃないですか。誰かお役所に認めてもらわないと証明出来ないの?

(ニュージーランドでは結婚してなくてもパートナーは緊急連絡先にも登録できるし、家族として認められます。)

 

性別も関係ないし、恋愛関係だろうが、友人関係だろうが、苗字が異なろうが、お互いのこと信頼して頼りにしていて大変な時期に気遣うような大切な関係なのは変わらないでしょ。

 

結婚、しなくてもよくない?一緒にいれたらそれだけで良くない?苗字同じなのに心がバラバラな家族やカップルたくさんいるじゃない。

 

自分が必要な時に必要なだけ頼れる、相手も必要な時に助けを求められる、そんなちょうど良い距離感の人間関係が築けたら素敵だなあと思っています。

 

子供はいてもいいし、いなくてもいい。子供がいないと幸せになれないわけでもない。子供がいないならいないなりの幸せの形があると思う。そこも縛られる必要もないかな。

 

私の理想はですね、仲良しの友達(男女関係なく)5人くらいで家一件買って、犬でも飼いながら必要な時には助け合って、自分ひとりでいたい時はひとりでいて、という都合の良い関係を謳歌できる生活。

 

仕事

楽しい時期。体力的にも頑張れちゃうし、頑張ったらちゃんと形になるし。たぶん宝くじ当ててもう働く必要なくなっても仕事続けると思う。今の私が私でいられる理由は仕事にある。

 

過去の記事読んでも分かるように、私の中でとても大事な時間ではあるのだけど、このコロナ騒動を機に「仕事ばっかりやってたら失うものもあるな」と気づくことができました。

気づいたというか、見ないようにしていたものを見ざるを得なくなった。これはコロナで起きた事の中でも良い事でした。

このまま没頭してたらあっという間に50歳60歳になっちゃうのも分かる気がします。

 

今後は、仕事の質は向上させつつ、自分のために時間を割く方法を考えていきたいんです。エネルギーの方向や量を変えずに、もっとうまくやりくりできるんじゃないかなと。プライベートを犠牲にすることなく仕事に没頭できる環境、作れるはずなんですよね。

 

友人

ニュージーランドでも信頼できる人が出来てきた。

丸3年いてまだそんなこと言ってるのって感じなのですが。実は内向的なのです、私。

 

相変わらず友達は少ないのだけど、何かあった時に「ねぇ聞いてよー!」って気軽に相手の邪魔をできる人がいます。日本にもいるんですけど、ニュージーランドにいるというのは、またこれはこれで嬉しいです。安心します。

 

これからもう少し広めていきたいプライベートでの人脈。学生の時とも違う、20代後半ならではの人脈ですね。また30超えたら人脈も変わっていくのでしょう。

 

暇な時に「ただ話したかったから連絡した〜」なんてのも、仕事バリバリしてると結局返事が止まってしまうのでしてなかったんですよね。このコロナを機に日本の友達にも沢山連絡しています。ほんと、一度私をストップしてくれてありがとう。

 

お金

お金って人を幸せにできないんだな、と感じるこの頃です。

 

自分の力でのし上がり成功している人たちを見ていると、いつも時間を気にしていたり、何をするにも体裁を気にしていたり、なんだかよく疲れている。そのガッツを尊敬しつつも私は、そんなストレスを抱えて生きて大丈夫だろうか、と心配になる。

 

プライドで固めたガラスのようなハートを持っていたり、自分のことで精一杯で人のことなんて気にしていなかったりする人もいました。そういう人たちとデートしても結局私が傷つけられてしまうばかりで、なんだか「本当にあなたはそれで幸せなの?」と感じることが多かった。

 

一方で、そこまで裕福じゃない人たちと話すと、なんだかよく笑っている。

たぶんお金の面で我慢することもあるだろうし不安もあるだろうけど、お金で補えない何かを持っているように見えます。家族や友人との時間を大切にできている。

 

大切なものはなんだろうか。

 

私はというと、チマチマ貯金して増えていく口座を見ながら「いつになったら私は満足するのだろうか」なんて考えています。

 

このお金を貯めるために犠牲にしてきたことはなんだろうか。

 

たまにそんなことを振り返らないと人間らしい温かさなんてあっという間に消えてしまうんじゃないかと、デートに行って渋い思い出を作った彼らを思い出しながら思うのです。

 

でもお金がないと保険も買えないし車も買えないし子供も育てられないし家も買えないし大好きな人に何かをあげることすらできないのです。

 

ジレンマ。

くそう、と思っては宝くじを買いに行っています。

 

将来

この3年でかなり価値観が変わってきています。

ニュージーランドに来た頃は、当時のヒゲ彼氏と結婚して、28くらいまでにはきっと子供の話とかしてると思っていた。

 

色々な人に会い、経験に投資して、世界を見ていくうちに、きっと今後も私の価値観は目まぐるしく変わっていくのだと思います。

 

なので、今この状態で何かを定めてしまうのは、制限を設けてしまうことにつながるんじゃないかなと感じています。

 

今全部決めて目標を定める代わりに、ゆるく方向性だけ決めています。

行く方角だけ知っている。あとは地図を書きながら進んでいる。途中で方向転換も全然する。休憩もする。

 

目先のことに気をとらわれすぎていて、将来どころではないような気もします。今は目まぐるしく変わっていく自分の生活をじっと見ていたいし、壊れていく自分の固定観念を壊れるところまで壊していきたい。壊し切ったところでまた新しく将来のこと考えながらお城を建てていくたいなと思います。

 

 

まとめ

高校生のころは、28歳になったらもっと色々と人生も定まっているんだと思っていました。

そう願っていたところもあったんだろうなあ。

 

でも実際にそこまで来てみたら、ここで安定なんてしていたくないし、変化を常に探しています。周りに「そろそろ結婚は?」「子供は?」「仕事はそれでいいの?」とか口出ししてくる人がいないし、言われても跳ね除けられちゃう位の自信を持って自分が今やりたいことをやりたいようにできていると思えています。

 

28歳、青春を謳歌しております。